大学時代、僕は古びたアパートに一人で暮らしていた。部屋は格安で、学生にはありがたい物件だったが、毎晩決まって隣の部屋からすすり泣く声が聞こえてくる。泣き声は「ごめんなさい…ごめんなさい…」と繰り返し、次第に囁き声や壁に何かがぶつかる音も混ざるようになった。
あまりに続くので、隣の部屋の住人に苦情を言おうと大家さんに相談すると、驚くべきことを聞かされた。
「隣にはもう何年も誰も住んでないよ。昔、そこに住んでいた女の人が亡くなってから、誰も寄り付かないんだ」
聞くところによると、隣の部屋にはかつて若い女性が住んでいたが、ある夜、部屋で不審な形で亡くなっているのが発見されたという。警察の調査では「自殺」とされたが、不審な点が多く、未解決の謎が残っていたらしい。そして亡くなった女性が周囲に強く恨みを抱いていたこともあり、その恨みが部屋に残ったと言われているそうだ。
その夜、僕はどうしてもその部屋が気になり、大家さんの合鍵を借りて隣の部屋に入ってみることにした。
部屋の中は暗く、古びた壁紙が剥がれかけていた。奥には、暗闇の中で誰かが膝を抱えて座っているような影が見えた。息を呑みながら近づくと、影がゆっくりとこちらを向き、青白い顔をこちらに向けた。
「…助けて」
その声を聞いた瞬間、頭に強烈な痛みが走り、気を失った。
目が覚めると、僕は自分の部屋に戻っていた。しかし、それ以来、奇妙なことが起こり始めた。自分の姿がどこか違って感じるのだ。鏡を覗き込むと、そこには自分のはずなのに見慣れない冷たい眼差しの“僕”が映っている。
そして、毎晩夢の中で僕は隣の部屋に閉じ込められている感覚を味わうようになった。すすり泣き、誰かに謝り続ける自分の姿。その中で徐々に、女性の過去の記憶が鮮明に蘇ってきた。彼女はかつて、自分を裏切った恋人とその新しい恋人に深く絶望し、嫉妬と恨みによってこの部屋で命を絶ったのだ。そして彼女はその恨みを晴らすために、誰かをその部屋に引き込むことを望んでいた。
「ごめんなさい…」
その声が僕の口から漏れる度に、彼女の怒りと怨念が僕の体に染み込んでいく。彼女は僕を使って、世の中にその恨みを晴らそうとしているのだと気づいたが、もはや後戻りはできなかった。
それから僕は少しずつ、彼女の記憶と意識に飲み込まれ、彼女の代わりにこの部屋で泣き続けることになった。
僕の意識はもはや薄れかけ、ただ彼女の怨念がこの体を支配している。そして次にこの部屋に引き込まれる誰かが来るのを、静かに待ち続けるのだ…
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